菱沼一憲
菱沼一憲は著書で以下の説を述べている。
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。
しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。
また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。
源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。
つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。
よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。
どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。
これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。
頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。
しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。
また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。
源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。
つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。
よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。
義経は優れた戦略家であり戦術家であった。
どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。
一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。
これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。
update:2010年03月07日
